ALS(筋萎縮性側索硬化症)に負けないで
全世界から最新の治療情報を見つけ出し、ここで紹介します。完治するまで戦い続けましょう!
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今年は、皆さんに感謝
皆さん、こんにちは!

2011年も残すところあとわずかとなりました。この一年は、我々にとって本当に忘れられない一年となりました。
また皆さんと一緒に流した汗は一段と思い出深い年でもありました。
新しい年も課題山積です。しばらくは大変な時期が続きますが、皆さんと心を一つにして取組んでいきたいと思います。まずは今年の疲れをしっかりとって英気を養ってきてください。
ブログは、1月7日までお休み致します。 では、良いお年をお迎えください。
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筋萎縮性側索硬化症に対するメキシレチン塩酸塩内服の有用性に関する臨床試験
筋萎縮性側索硬化症に対するメキシレチン塩酸塩内服の有用性に関する臨床試験があるようですが
募集に関しては、千葉大学大学院医学研究院 神経内科学に問い合わせてみてください。


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ALSの独居生活者、橋本操さんを訪ねて「孤独と生死」を考える
小鷹昌明(関東・某大学病院准教授)
日経メディカル2011年12月22日


師走入りした最初の週、筋萎縮性側索硬化症(ALS)患者である橋本操さんのお宅を訪問した。橋本さんは、日本ALS協会副会長およびNPO法人「さくら会」理事長であり、ALSの進行に伴って人工呼吸器を装着し、それでもなお(“だからこそ”かもしれないが)、独居生活をされている方である。
 練馬駅前の繁華街にある瀟洒なマンションの4階を訪ねると、「さくら会」の方と2人のヘルパーに付き添われ、彼女は私たちを出迎えてくれた。
 キッチンと隣接する6畳のダイニングと4畳半くらいの2部屋。大きい方の部屋には電動ベッドが置かれ、小さい方の部屋には車椅子が2台収納されていた。枕元にはパイプラックが組まれ、人工呼吸器と吸引器とが設置されていた。ボックス棚やテーブルは、生活物資や介護用品、医療器具やそれらの在庫などで埋め尽くされていた
 柱や壁には、ポスター(SMAP、清原和博)や家族の写真に加えて、掲示物やスケジュールカレンダーが貼られていた。一日の献立表や、支援者が風邪を持ち込まないための「予防接種に行きましょう」と書かれた告知もあった。人の立ち入れる場所の限られた、生活空間というよりは隠れ家のようなその隙間に、私たちは身を寄せ合うようにお邪魔した。
 橋本さんは32歳でALSを発症。気管切開術を38歳で受けて、20年が経とうとしている。さまざま葛藤があったであろうが、初めから家族介護の選択肢はなく、自らの知恵と働きかけとによって、独居生活での24時間介護体制を構築した。ベッド上の生活ではあるものの、20人程度の介護者に常時支えられ、有志者とともにNPO法人「さくら会」を立ち上げ、現在でもALS患者と家族とのための支援活動を展開している。
 コミュニケーションの方法は、介護者との阿吽の呼吸によるアイコンタクトと足趾を使ってのタイピングのみであった。「実際に動くのはスタッフで、私自身は『気合いです』とか、『自分で闘え!』とか、なるべく多くの患者に檄を飛ばすことしかしていない」と、橋本さんは(タイピングで)説明してくれたが、それだけだとしても、ものすごく大変なことだと思った。
 彼女はベッドの上に鎮座し、すべての会話に耳を傾け、ときどき、ヘルパーを通して難病介護に関する自分のノウハウを述べてくれた。私はそういう話に聞き入りながら、お宅を何度も見回すことで“独居生活”というものの成り立ちを考えていた。
 長い長い闘病生活の中での想いや、これまで彼女が成し遂げたいくつもの制度改革について、見守り続けてきたわけでもない私ごときが語れるものでは到底ない。生半可の人生観で彼女を語ったところで、彼女自身の思考の伝達の邪魔になるだけである。
 だから私は、そのときに考えていた“孤独”についてだけ、ここで伝える。橋本さん宅を訪問して、私が常日頃感じている「孤独の意味」について、その想いを新たにしたからである。
“孤立”ならぬ“孤独”を求めて
 勘違いしないでもらいたいが、私がここで言う“孤独”は、“感傷”とは違う。また、“孤立”とも違う。 言い方を変えるならば、“孤独”とは「独りで行動する勇気」のことである。
 感傷は癒されていいが、孤独は保持されるべきである。そして、“孤立”を恐れて“孤独”を愛せなくなるのは、本末転倒のような気がする。
 「“孤独”という言葉の響きが、どうしても寂しい」と言うのなら、“自立”と言い換えてもいい。そして、“自立している”というのは、“依存していない”というのとは少し違う。自立とは、周りの人からの「尊敬」とか「受容」といったものを支えにしていくことであり、基本的には、支持されつつも“個人として立ち振る舞える”ということである。
 どの世界でもそうかもしれないが、序列が上がって行けば行くほど、同期の仲間は減っていく。もちろんその分、新たに異なる年代や職種の“仲間”は広がるかもしれないが、実のところは、お互いの地位や権威に群がる人たちが増えているだけの場合も多い。
 残念だが、人と人とのつながりが表層的になっている現代では、他人に対して深いところまでの関心を抱くことがどんどん難しくなっている。仕事のつながりはもちろんのこと、家族のつながりまでもが希薄化している。同じ業界であったとしても一蓮托生という意識は乏しく、周りで何かあったとしても自衛的で場当たり的なアドバイスしかできない。
 たいていの場合、最終的な判断や岐路の選択は、結局のところ自分で下すしかない。だからこそ、自立のため、「尊敬」や「受容」を少しでも得ておくための行動が必要なのである。
病・死との対峙は独り
 人は一人でいるときよりも、大勢でいるときの方が孤立を感じやすいのではないだろうか。他人の意見に合わせたり、嫌われないような会話を重ねたりする必要があるからで、「本当はこう言いたいのに言えない」とか、「実際はこう思うのに伝わらない」といったことは日常茶飯事である。
 そうした場合、人は、暗くて口下手で社交的でないから落ち込むのではない。周りが楽しそうに騒いでいるときに、自分には話題がないことを恐れて沈むのである。
 つまり何が言いたいのかというと、大切なのは「自立した“個”」ということである。“個”が確立していないと、孤立を恐れるあまり孤独にはなれないし、感傷も癒せない。
 しかし、日本人には“個”が徹底的に不足している。それも、生きて死ぬうえで供にあるべき“孤”が、である。では、“個(孤)”を得るきっかけを、いったい何に求めればいいのであろうか?
 要するに“考え方”を変えればいいのだろうか?
医師になって少し経験を積んだ頃の私は、“夢や希望”、“理想や目標”をすぐに持ち出す人をあまり信用しなくなっていた。同じように、“運命や可能性”という言葉も、たいていの場合あてにできなくなっていた。
 「希望や目標を頼りにして生きる」という、その思考過程がかえって、患者本人をときに苦しめ、ときに甘やかしているのではないかと感じていたし、「病気というものの解決には、『運命』という人ならぬ、天上の強い意思が必要」という、不安定で不確実なものに頼る姿勢にも、釈然としなかったからである。
 自分はどのように生きて死にたいのか? “個”を自覚するにはどうしたらいいのか? 多くの患者との出会いにより、私のそうした疑問は、「孤独を理解することでしか考察できない」という結論を芽生えさせた。
 想像を絶するほどの苦難を静かに受け入れている患者、気の遠くなるような試練を乗り越えようとしている患者と出会い、私はそのたびに考えるきっかけをいただいた。死の恐怖と闘っている患者を診ることで、私の医師としての機能を肯定されたこともあったが、同時に何もできずに存在を否定されたこともあった。
 自身の意思とは無関係に90歳を過ぎても徹底的な濃厚医療を受けている癌患者、面会のない病院の片隅でひっそりと生息する認知症患者を診ながら、“生きる”ことよりも“生かされる”こと、“死ぬ”ことよりも“死ねる”ことの意義に、大きな想いを寄せるようなった。
 私は何も一人でいることを求めたいわけではない。ただ、「病院に訪れる患者は、家族や介護者の付き添いがあるにせよ、詰まるところ、皆、独りだ」ということを悟った。そして、そういう考えは、やがて「最終的には、個人として病気と対峙することを誰もが回避できない」という確信に変わった。
 人は一人では生きていけない。しかし、どれほど温かい仲間や家庭があろうとも、最終的に人は独りで死んでいく。
 結局“独り”ということを自覚しなければ、生きやすく、死にやすくなれない。少なくとも私はそう思ったし、“独り”ということに気付かずに人と人とが付き合っていたのでは、病気や事故などの理不尽な事態や人生の転機に遭遇したときに、度量というか、意思を発揮できないのではないかと考えるようになった。
 確かに他人を思いやることは大切である。もちろん、家族や仲間との絆が大切であることに異論もない。
 ただ、覚悟を決めなければならない時期が人生には必ず来るし、そのときの最終決断は独りで臨まなければならない格闘なのではないか。孤独に対する構えがないと、いずれ訪れる“独りの生き死に”を乗り越えることに苦慮するのではないか。
 私は、ずっとそう考えてきた。
望むのは、孤独な者同士の強固な関係
 医師に限らず、“生涯の意味”を深く考察することは大切である。しかし、人生を一回しか経験することのできない人間が、未経験な一生を予想して理解することはなかなか難しい。幸か不幸か、私の場合は、数々の難病患者と接することで、孤独への理解が、その後の生き方を見出すきっかけとなった。
 そして、孤独に立ち返って考えを出発させることによって、すなわち、“個”に気付くことで、最近ようやく、自分だけでなく「自己の考えによって周りの意気も上げたい」ということも願うようになった。
賛同できる考えであったとしても、当たり前で常識的な正論だけを振りまいていては、周囲の士気は高まらない。だから私は、「本質さえ捉えていれば、多少極端な意見で構わない」と思うようになってきた。考えが極端だとしても、現実の人生に応用する段階でそれが中庸として緩和できるなら、それもいいのではないかと感じるようになった。
 「周りに左右されず、流されず、己で考える」という、そういう“本質への洞察”が、私の生涯を通じてのテーマというか、信条というか、信念というか、あるいは闘いというか、そういうことである。私の論述をひとつでも読んだ人なら、すでに雰囲気として感じ取ってくれるであろう。
 孤独の人は孤独の人としか打ち解けられないし、打ち解けるつもりも、おそらくはない。再度強調するが、私は孤立を奨めているわけではない。むしろ、自分の思考と共鳴する新しい仲間の発見を強く望んでいる。
 そこに広がるのは、孤独な者同士のネットワークである。無理して笑う必要はないし、依存してくる相手に合わせることも、退屈な話に相槌を打ち続けることも、人の噂話や悪口に便乗することも必要ない。発言が悪意に取られないかと心配することもない相手との、強固な信頼関係である。
彼女は紛れもなく“孤独”だった
 ALS患者の橋本さんに話を戻す。
 本人を含めて、彼女を中心とするALSサポートチームの方たちが、私の考えを是とするか、非とするかは分からない。表層化や希薄化といった現代に異を唱えるかのように、彼女たちはALSという疾患の支援で一致団結し、他人であろうと独居であろうと、自分の家族や身内のように救いの手を差し伸べている。
 私の勝手な想いかもしれないが、“橋本操”という人は、紛れもなく“自立”していた。「依存」ではなく、周りの人から尊敬や受容といったもので支えられ、“個”として立ち振る舞える、“孤独”な人であった。
 そして、「孤独であっても、共鳴する者同士であれば支え合うことができる」ということを、改めて証明してくれた。それは、私の孤独を安心させてくれる紛れもない現実であった。
 私は、この瞬間に、この場所で、この物言いで、感じたことを語り続けたい。それが、独りでの言説であり、独自行動のための勇みであると思っている。
 そして最後まで、四季の移ろいや花鳥風月の趣を愛でることを意識し、およそ儚き世の美しさを身に染みるまで味わい、諸行無常の中で詩を諳んじ、随筆をしたため、琴棋詩酒と風雅を嗜む生活者として、孤独でいたいと思う。
 最後に、橋本操さんのお宅を訪問する機会をお与えいただいたNPO法人「さくら会」理事、川口有美子さんに深くお礼を述べる。
●おだかまさあき氏。1993年卒後、神経内科に所属。病棟医長、医局長、講師を歴任し、11年より現職。「今、医療者は何を考え、どうするべきか!」をテーマに、現場から情報を発信している。
ALS臨床試験情報
田辺三菱製薬でALS臨床試験の募集があります。

筋萎縮性側索硬化症(ALS)を対象とした治験のご紹介
http://www.mt-pharma.co.jp/shared/show.php?url=/develop/protocol/als/index.html

情報を提供してくれたマリアンヌさんに感謝します。
脳の神経伝達役「ドーパミン」、発酵乳飲むと増加 カルピスと静岡県立大
カルピスと静岡県立大学は発酵乳が脳内の神経伝達物質の1つ「ドーパミン」の量を増やすことをラットを使った実験で確認した。ドーパミンは記憶や学習などの脳機能に関係するとされる。同社はこれまでの研究で発酵乳摂取と記憶力向上の関係を示しており、その仕組みの一端とみている。
 研究対象としたのは同社が保有する乳酸菌「ラクトバチルス・ヘルベティカス」で作る発酵乳。ラットを使った試験では発酵乳から乳脂肪分やカゼインなどを除いた水溶液(乳清)の発酵乳ホエーを与えた。

注記:ドーパミンと神経疾患について
パーキンソン病やアルツハイマー病、ALS、てんかんは、その種の病気です。例えばパーキンソン病は、中脳の黒質と呼ばれる部分の神経細胞が侵され、ドーパミンという神経伝達物質が減っていき、手足などの運動障害が徐々に進行して行く病気です。

「アミール」サプリメント
http://www.calpis.co.jp/products/functional/ameelsupple10.html
名古屋大、乳歯由来の幹細胞で脊髄損傷を回復
名古屋大学大学院医学系研究科の顎面外科学の上田実教授の研究グループは、脱落したヒト乳歯から採取した歯髄幹細胞を脊髄損傷モデルのラットに移植し、下肢運動機能を回復させることに成功した。ヒト胚性幹(ES)細胞や骨髄間葉系幹細胞、人工多能性幹(iPS)細胞の移植による効果が研究報告されているが、これらにはみられない、中枢神経の再生にかかわる神経細胞ネットワーク形成に必要な神経軸索の伸長や軸索を覆う神経伝達速度維持を担う髄鞘の再生という2つの効果が確認できた。親しらずでも同様の効果が得られるとしている。現在、有効な治療技術のない脊髄損傷に対し、新たな治療法開発につながる可能性がある。

上田実教授の研究グループ
http://www.uedacell.com/lang/en
Cytokinetics社 第2相試験でALS薬CK-2017357の安全性を確認
2011年11月30日、Cytokinetics社は、筋萎縮性側索硬化症(ルーゲーリック病、ALS)患者を対象にした進行中の第2相試験の最初のコホート(パートA)でCK-2017357の良好な忍容性が示されたと発表しました。

どんどんワクワクするニュースが出てきました。来年にはもっと嬉しいニュースが発表されます。もうしばらくです、あきらめずに頑張りましょう。

Cytokinetics社プレスリリース
http://www.cytokinetics.com/press_releases/release/pr_1322608545

忍容性とは、
『薬物によって生じることが明白な有害作用(副作用)が、被験者にとってどれだけ耐え得るかの程度を示したもの。医薬品には、多かれ少なかれ、有害作用(副作用)がつきものであるという前提にたって使われる用語である。薬物の服用によって、有害作用(副作用)が発生したとしても被験者が十分耐えられる程度であれば、「忍容性が高い(良い)薬物」となり、逆に耐えられない程のひどい有害作用が発生する場合は、「忍容性が低い薬物」となる。』
Adeona社 経口亜鉛のALSパイロット試験で良い結果が得られた
2011年11月30日、Adeona Pharmaceuticals社は、筋萎縮性側索硬化症(ルーゲーリック病、ALS)患者10人が参加した経口高用量亜鉛の安全性評価パイロット第1相/2相試験で良い結果が得られたと発表しました。

Adeona Pharmaceuticals社プレスリリース
http://adeonapharma.investorroom.com/index.php?s=43&item=101

どんどん嬉しいニュースが出てきましたね。引き続き調査を続けます。亜鉛サプリメントで調べたら、わかさ生活にもあるんですね。
わかさ生活
https://www.wakasa.jp/shopping/mall/products/detail.php?product_id=69&cid=gglzn03174
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